Carol Gilligan
第40回(2025)受賞
思想・倫理
/ 心理学者
1936-
ニューヨーク大学 ユニバーシティ・プロフェッサー
人びとの関係性を重視する「ケア」の観点を女性の道徳観として劣位に置く従来の心理学理論が、人格形成のモデルを狭隘にしている点を批判し、「正義の倫理」と「ケアの倫理」との編み合わせを展望することで、ケアに関わるグローバルな課題に取り組む新たな学問的基礎を築いた。
キャロル・ギリガンは、エリクソンやコールバーグに代表される従来の発達理論が男性の遂げる人格的な成熟を理想としていることに異を唱え、主著『もうひとつの声で』(初版1982年)で主に思春期から青年期の男女へのインタビューに基づいて、女性の思考には、男性のそれと較べて、道徳を考えるうえで示唆に富む「もうひとつの声」がより多く含まれていることを指摘した。
ギリガンによれば、他者の声に耳を傾け、他者のニーズに具体的に応えてゆこうとする傾向は、女性により強く見受けられるもので、道徳上のジレンマに直面した際も、男性と較べて、人びとの結びつきをより重視し、関係を破綻させない解決策を見いだそうとする。ギリガンは、このような配慮を重視する倫理を「ケアの倫理」と呼び、普遍的な原則や権利を用いて時に暴力的ともいえる解決を実行に移す「正義の倫理」と対比的に描いた。「正義の倫理」は《原則》に基づき、人間としての普遍的な権利や公正を重視する。これに対し、「ケアの倫理」は相互に依存しあう個人の《関係性》という視点から、当事者の各々を気遣いつつ、一人ひとりにとってもっとも望ましい解決を模索するというのである。
ギリガンは「正義の倫理」に「ケアの倫理」を対置するだけではない。むしろ人びとの十全な人間的成熟のために、位相を異にするこれら二つの倫理をどのように編み合わせてゆくかに心を砕いた。
ギリガンがとくに問題視したのは、その「もうひとつの声」が男性優位の社会、なかんずく家父長制度下において抑圧されてきたことである。男性の発達においては個人的主体としての《自律》がめざされるのに対し、女性の発達においては、家族や友人など私的な領域で人びとのニーズに応答する「良き女性」としての役割が求められてきた。女性が自分の権利を主張することは利己的と見なされ、無私であることが理想とされた。このような抑圧が内面化されると、女性は「声」を失うことになる。ギリガンは、他者のニーズだけでなく女性自身のニーズにも公平に応答する「ケアの倫理」こそが、人間性を男・女らしさに分断し、「もうひとつの声」を女性的な思考と決めつけ、劣位に置く近代の家父長制から、女性のみならず男性をも解放するための鍵となると考えた。
ギリガンの「ケアの倫理」の発想は、「主体の自律」や「原則の普遍性」などを中核概念とする西洋近代の倫理学に異議を申し立てるだけでなく、教育学、社会学、看護学、さらには社会政策といった諸分野の取り組みに新たな視点を持ち込むもので、女性の地位向上や高齢者や障害者の福祉といったグローバルな社会課題に対応するための新たな学問的基礎ともなった。ギリガンはこのように、現在盛んに議論されている「ケアの倫理」の思想的地平を拓いた人であり、その著作も数多くの言語に翻訳されている。
プロフィールは受賞時のものです