【特集】海洋生態系の炭素循環における「微生物ループ」の役割の解明
ファルーク・アザム博士

海の生き物の多数派は肉眼では見えない微生物たち
この海洋微生物こそが海洋における炭素循環の重要な担い手であることを解明
その影響は海洋生態学だけでなく大気を含めた地球化学に及ぶ

(PR企画:日経サイエンス、取材/執筆:詫摩雅子)

コップ1杯の海水にどのくらいの生き物がいるか、ご存知だろうか。コップ1杯を180mlとすると、生き物の数は1億8000万。その多くは細菌だ。コップ1杯に日本の人口を上回る数の細菌がうごめいていることになる。
多くの人はこれほどの数の細菌がいるとは考えてもみなかったのではないだろうか。専門家でもこの数字を知ったのは大昔というわけではなく、1970年代のことだ。これはDNAだけを染める蛍光染色剤と、それまでの蛍光顕微鏡とは異なり、試料の上から光を当てる新タイプの蛍光顕微鏡が登場したおかげである。感度の高い蛍光染色を使うことで、海洋の細菌を直接見て、数えられるようになったのだ。
このときすでに人類は月面に到達していたことや、細菌の発見がさらに300年も前の1670年代であることを考えると、海の微生物に関しては基本的なことさえ、よくわからずにいた期間が長かったことがわかるだろう。

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たくさんの活発な細菌たちと炭素循環とのかかわり
1980年、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所にいたファルーク・アザム博士は、研究室のメンバーとともに海洋の細菌が実際にどのくらいの速度で分裂・増殖できるのかを簡単に測定できる手法を開発した。細菌が分裂するときには、DNAの複製を行う。そのDNAの素材の一つであるチミジンという物質に放射性同位体で目印をつけ、細菌に取り込まれていく速度を測定することで、増殖スピードがわかるという仕組みだ。
この手法によって求めた海洋細菌の増殖スピードは予想外に速かった。大量にいる細菌が活発に分裂・増殖をしている─こうしたことがようやくわかってきたのである。
海洋の細菌のおもな栄養源は、海水に溶けている有機物、いわゆる「溶存有機物」で、これは海洋中のさまざまな生き物から海水中に放出される。この溶存有機物に関しても、この頃に新たな発見があった。その存在自体は古くから知られていたが、1980年代の終わり頃に、海洋に存在する溶存有機炭素の総量が、大気中の二酸化炭素の炭素量に匹敵すると判明したのだ。
たくさんの活発な細菌と、その栄養源となる大量の有機物─1980年代の初頭に明らかになった海洋での細菌の存在の大きさが、その栄養源である溶存有機物を中心とした海洋での炭素循環の研究を加速させたとも言える。

海での物質循環の理解を一新
多くの人が学校で習った食物連鎖では、光合成をする珪藻などの植物プランクトンを動物プランクトンが食べ、その動物プランクトンを小魚のような動物が食べ、それをさらに大きな動物が食べるという図式だっただろう(下図の上の流れ)。この食物連鎖の図式は今も重要だが、これと並列して微生物たちが主役となる別の流れがある。それが「微生物ループ」で、アザム博士らが1983年に論文を発表し、それまでの海洋での炭素循環の理解を一新させた。
食物連鎖のそれぞれの段階で放出される溶存有機物を細菌が栄養源として利用して成長し、分裂・増殖をする。そして、増えた細菌を数ミクロンの単細胞生物である鞭毛虫類が食べ、さらに大きい繊毛虫類→動物プランクトン→小魚……と食物連鎖の流れに有機炭素が戻っていくのだ。微生物が駆動するループ状の流れである「微生物ループ」が従来からの食物連鎖に付け加わったことで、海洋での炭素の循環の理解は大きく変わった。

微生物ループ
従来からの食物連鎖と微生物ループ
さまざまな生き物から海水へ排出される溶存有機炭素を細菌が栄養源として利用する。そうして増殖した細菌を原生生物(繊毛虫類など)が食べ、それをさらに動物プランクトンが食べることで、炭素が食物連鎖に戻る。このルートが微生物ループだ。微生物ループの概念は、海洋における炭素循環の考えを一新した。

量的にも大きな効果
大量にいるといってもミクロンサイズの細菌のことだ。そんなに大きな影響はないと思うかもしれない。1970年代からアザム博士と親交があった東京大学名誉教授の小池勲夫博士は、「海の生き物と聞いて皆さんが思い浮かべるようなクジラとかアザラシなどの哺乳類は、生物の全体量からすると誤差として無視できるくらいわずか。海の生き物の大半は微生物です」と理科年表に使われている表を見せてくれた。生物量を個体数ではなく重さ(炭素換算の生物量)で比較した表だ。
それによると海洋での生物量の総量は60億トン。最大派閥は、珪藻などの植物プランクトンが多くを占める原生生物のグループで、20億トンと全体の1/3を占める。原生生物は細菌や古細菌とは異なり、ヒトと同じように細胞のなかに膜で包まれた核をもつ真核生物だが、ほとんどが単細胞の微生物だ。その次に多いのは細菌で13億トン。古細菌も3億トンだ。つまり、海洋では微生物がすべての生物量の半分以上を占めることになる。
これだけ大量にいれば、その影響力も大きい。海洋における「一次生産者」である植物プランクトンがつくる有機炭素の半分程度が微生物ループに入ると見積もられており、その一部が食物連鎖に戻ってくる。

異分野とも積極的に交流
小池博士がアザム博士と会ったのは互いにまだ独立した研究者となる前の、30代の若手だったころだ。1970年代の当時、カナダ西海岸沖のバンクーバー島に大きな透明のプラスチック壁で海を仕切った「閉鎖型海洋生態系」の実験施設があった。カナダ、アメリカ、イギリス、日本などの研究者が参加した国際共同研究プロジェクトで、「毎年、合宿をするんです。そこでたまたまファルーク(アザム博士)と同じ部屋に泊まることになった。一晩中ずっと研究の話ばかりをしていました」。
これ以降、アザム博士と小池博士の交流は続く。のちに小池博士がスクリップス海洋研究所に籍を置くことになると「住む家を探してくれることから始まって、家が決まるまで家族4人でファルークの自宅に泊めさせてもらった。本当に面倒見の良い人だった」。
小池博士は、微生物ループが発表される前後のスクリップス海洋研究所の様子を知っている。「ファルークの所属していた食物連鎖グループは植物プランクトン、動物プランクトン、魚、地球化学といろんな分野の専門家がいて、とにかく活気があった」。もともと海洋学を専攻する研究者は、異分野との交流が盛んだと小池博士は言う。「生物系も化学系も物理系もいて、同じ調査船に乗ったりするから、自然とそういう文化になるのでしょう」。
加えてスクリップス海洋研究所の周囲には医学系の研究所も数多くあり、医学系の情報が入手しやすい環境だったと小池博士は言う。「細菌などの微生物の研究に必要な(測定や解析などの)新しい手法は、医学系からよく出てきていました。使える研究資金が大きいですから。医学系で話題になっている新しい手法を海洋微生物の研究でも試すということがしやすい環境でした」。
海洋研究開発機構(JAMSTEC)の山田洋輔博士がアザム博士の研究室にポスドク研究員として参加した2017年〜2019年には、アザム博士はすでに70代後半になっていた。そのときも「新しい手法を取り入れることにとても積極的でした。『こういう試薬が出たようだ』とか『新しい蛍光ビーズを試してみたらどうか』など、情報を得るのが早かった」と山田博士は言う。「新しい手法の応用でブレークスルーにつながった経験があるからでしょう」と話す。

アザム博士の研究室では、学生も教授も関係なく、活発な議論が交わされていた

アイデアが次から次に
東京大学大気海洋研究所・教授の濵﨑恒二博士が大学生・大学院生として研究者への歩みを始めた1986年〜1995年は、1983年発表の「微生物ループ」が知れ渡り、定着していった時代だった。「(学術集会での発表や論文に)トレンドワードとして入って来ていました。(スクリップス海洋研究所のある)カリフォルニアの海のデータで言えることがほかの海にも当てはまるか、ヨーロッパや日本の海などでみんなが確かめていた時代。以前から海洋微生物の研究をしている人たちからすると(微生物ループの概念は)『そうではないか』と感じてはいたと思いますが、海洋学全体からすると斬新で、注目を集めていた」。
濵﨑博士は大学院を修了した後、国内の大学勤務を経て2000年から2年間、アザム博士の研究室に客員研究員として参加した。大物研究者の運営する研究室では、研究テーマの実現に必要な実験や解析が割り振られ、それぞれのメンバーは“歯車”にもたとえられる研究スタイルになることもある。「そういう感じはまったくなく、良い意味で放任されていました。研究の進捗を報告するときも、データの細かいところは見ず、本質的なことを説明しなさい、という感じでした。それで、『次は、ああしたらどうか、あれを試してみたらどうか』といくつもアイデアをくれる。10くらいは普通に出てくる。でも、『実際にどれをするかは君が決めなさい』と言われるんです」。
2000年当時、アザム博士はすでに著名研究者だったが、「学会や研究所の役職とか、そういうのにはまったく興味はないようでしたね。サイエンスに対しては非常に厳しいのですが、議論は学生も教授も関係なくフラット」と濵﨑博士は言う。印象的だったのは「微生物ループもそうですが、言葉の使い方がうまい。講演の準備などにはすごく時間をかけるのです。そして、ユーモラスに研究を語る。ファルークが学会などで発表すると、みんなが聞きたがって立ち見が出るほどだった」。

“論文は読者への手紙”
アザム博士の“相手に伝わる”ことを重視する姿勢は、JAMSTECの山田博士の心にも刻まれていた。「ファルークに論文の草稿を見てもらうと、言葉の一つひとつまでとてもていねいに直してくれるのです。接続詞を入れたりして、すごく読みやすくなる。『論文というのは読者への手紙』と話してくれたのを覚えています」。また、図の色などもアザム博士は気にしていたという。「電子顕微鏡や原子間力顕微鏡の写真は、本来は色はなく、勝手に色づけされて出てきます。でも、初期設定の色ではなく、もっとカラフルでわかりやすい色にしろと毎回のように言われました」。
山田博士が在籍していた頃のアザム博士は、シニア研究者として総説や教科書などの執筆に費やす時間が長くなっていた。「夕方6時くらいになると毎日のように私のいる顕微鏡室にやってきて『What’s new?(どうだ?)』と聞いてくる。そこから1時間くらい議論が始まる。書き物ばかりしていると、生の実験データとか、顕微鏡データとかが見たくなるのでしょう。研究者ですから」と山田博士は言う。

アザム博士が勤めるスクリップス海洋研究所は、世界で最も歴史ある海洋学の研究組織の一つ

微生物の生き様を追う
アザム博士は微生物ループのほかにもいくつもの業績がある。その一つが、マリンスノーの表面で微生物が「ホットスポット」を作っていることを示したことだ。マリンスノーとは、生物の死骸や排泄物などに由来する有機物の塊で、深海へと沈む様子が雪のように見えたことからこの名前がある。
このマリンスノーの表面に細菌が集まり、酵素を出して分解しながら栄養源として利用していることをアザム博士は明らかにした。また、この分解された粒子をほかの生き物が利用していたりした。マリンスノーを中心として、そこに細菌やほかの微生物が群がる小さな生態系「ホットスポット」ができていたのだ。そこでの活発な微生物活動は、有機物が分解されて表層で再利用されるか、溶存有機物として海水中を漂うか、それとも粒子として深海へ運ばれるかを左右する。
分解されやすい有機物は微生物によって分解・利用されることで、分解されにくい有機物へと変わり、これがそのまま海中に蓄えられる。アザム博士らはこのプロセスを「微生物炭素ポンプ」と名づけた。炭素を海に貯める仕組みの一つとして注目されている。
このようにアザム博士の研究は、微生物を起点として海洋全体の生態系や物質循環を語るもので、その影響は大気を含めた地球化学に及ぶ。では、アザム博士の一番の関心はどこにあったのだろう?
「微生物でしょうね。微生物の生き様というか、そういうものに興味があったのだと思います」と濵﨑博士は即答した。古くからの研究仲間である小池博士も「ファルークはずっと微生物から離れることがなかった」と言う。
山田博士も「よく『(顕微鏡観察の対象となる)1センチ角のキューブ、この“小さな海”で何が起きているのか理解しなさい』と言われました。細菌が何をし、ウイルスや植物プランクトンなどとどういうやり取りをしているのか。それがわかれば、海全体のことがわかると考えていました」と話す。
アザム博士が見つめ続けた微生物たちが動かす海での炭素循環の理解は、大気を含めた地球レベルの炭素循環を考える際に欠かせないものになっている。近年の温暖化の行方を知る上でも、その重要性はますます増している。

〈本記事は日経サイエンス2026年11月号(9月25日発売)に掲載されました。〉

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