京都賞再耕 #04 五代目 坂東玉三郎丈
言葉にはならない大事なものは、人と人が出会うなかでこそ伝えられる

科学や技術、思想・芸術の分野に大きく貢献した方々に贈られる日本発の国際賞「京都賞」。受賞者の方々は、道を究めるために人一倍の努力を重ね、その業績によって世界の文明、科学、精神的深化のために大いなる貢献をしてきた人たちです。「京都賞再耕──じっくり味わう受賞者のことば」の連載では、これまでの京都賞受賞者へのインタビューを通して、記念講演会で語られた言葉をさらに掘り下げ、独自の哲学や思考プロセス、探求者の姿勢などに迫りたいと思います。今回は2011年に思想・芸術部門で受賞した、五代目 坂東玉三郎丈にお話を伺いました。

インタビュー: 西村勇哉(NPO法人ミラツク代表)
執筆: 杉本恭子

「京都賞再耕」のこれまでの記事
#01 國武豊喜博士 「抽象化」と「具体化」を往来するなかで突破口が見えてくる
#02 三村髙志博士 「役に立つ」とは、圧倒的多数の人に必要とされて喜ばれること
#03 金出武雄博士 「なぜこの研究をしているのか」に立ち戻る習慣が本質到達への鍵となる

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坂東玉三郎(ばんどう・たまさぶろう)
歌舞伎役者、映画監督、演出家。東京都生まれ。1964年に十四世守田勘弥の芸養子となり五代目坂東玉三郎を襲名。以後、三島由紀夫の『椿説弓張月』白縫姫、『桜姫東文章』桜姫など、大役を次々に演じて注目を集めた。立女形として当代屈指の人気と実力を誇る。2009年第57回菊池寛賞受賞、2012年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。2014年、紫綬褒章を受章。 さらに詳しく

コロナ禍の自粛期間中に耳を傾けた研究者たちの言葉

西村 先日『婦人公論』(2021年1月26日号、中央公論社)でのインタビューで、坂東さんは新型コロナウイルスの感染拡大がはじまった頃の自粛期間中に、『サピエンス全史』などの世界的ベストセラーで知られる歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリや、海外の経済学者たちが出演するテレビ番組をご覧になっていたとお話しされていました。なぜ、歴史や経済にご関心をもたれたのでしょうか。

坂東 印象に残っているのは『欲望の資本主義』シリーズ(NHK BS1スペシャル)です。コロナ禍の問題を知りたかったというよりは、研究者や専門家はこの世の中の流れをどう見ているのかに興味があったんです。各国の歴史学者、人類学者、経済学者などのインタビューから、パンデミックのなかで改めて聞こえてくる、彼らの哲学があることに気が付きました。自粛期間中でなければ、こんなにゆっくりテレビを観られなかったと思いますね。ずいぶん勉強になりました。

西村 コロナ禍が起きるような現代において、科学や社会が芸能から学べることについて、教えていただきたいと思います。坂東さんは、歌舞伎を演じるために歴史資料や絵画などから学ばれていると伺っています。歴史や文化に関する見識をおもちの坂東さんは、その番組で語られていた現代の社会をどのように感じられたのでしょうか。

坂東 GAFA(アメリカの主要IT企業、Google, Amazon, Facebook, Apple4社の総称)の発達によって、人間形成が急速に変わったのがこの10年くらいじゃないでしょうか。こんなにも情報が行き交って、グローバル化しているにも関わらず分断や格差が広がっていると、それぞれの視点から語られていました。

たとえば、1980年代以降はバブル景気がはじけた後も、無理やりにも旅行や観光をしなければいけない、出歩かなきゃいけないという世の中だったと思うんです。それによって経済が回っていたのだけれど、コロナ禍でいったんその動きが止まってしまいました。これからまだまだ経済は厳しくなっていくでしょうけど、人間と人間の面談によって築かれる気持ちのつながりをもう一度見直すときが、遠からずやって来るんじゃないかという気がしています。

また、コロナ禍でテレワークを導入する企業が増えましたが、オンラインで人と人がつながることが飽和状態になっていくと思います。すると、やっぱり会わなければ気持ちを保てないことがわかってきて、心の問題に立ち返っていくのではないかと思います。

杉本 坂東さんは、幼い頃からお師匠さんの家に住み込んで生活をともにしながら、芸のことだけではなくお師匠さんの一挙手一投足から学ばれたと伺っています。人と人が一緒にいなければ伝わらないこととは、どのようなことだと思われますか?

坂東 オンラインで対面しているのは、データ化されている音や文字だけです。人間同士が会わないと、魂と魂が対面することはできません。人間にとって大切なのは魂と魂が交流することだと思うし、それでこそ人間というのだと思います。ところが人間は、叡智をもってしまったがゆえに、直接会わなくてもデータでやりとりできる方向にどんどん向かっていったと思うんですね。人間がテクノロジーの開発をすることは根本的な思いから出てきているものなので仕方がないと思いますが、そのテクノロジーに支配されてしまうことを恐れているのです。

14歳の頃の玉三郎氏(中)。守田勘弥夫妻と共に過ごし多くを学んだ

人間の魂は空間を共にすることで感じ合っている

西村 人間はオンラインでデータをやり取りすることで「伝える」ことはできるけれど、魂と魂は「出会う」ことによって対面し、交流するということですね。

坂東 人間が対面したときに出会うのは存在です。だから黙っていても伝わる、感じるものなんですね。人間同士が会えば、細胞の振動だけでも理解できるものがあると思うんです。でも、テクノロジーは、データという現象がなければ何も伝わりませんよね。

生命同士が会う、心が会う、肉体が直接見合うとか。ただ生きているということ自体が、何かを発するエネルギーとなり、思考となる。たとえば、目を瞑っていてもそこに人がいる、生命と生命が同じ空間にいるだけで、伝わったり、温まったり、通信・交信ができることが大事なんです。心も魂も、目で見たり手に触れたりはできませんよね。それをテクノロジーによって現象にしたものが、人間のすべてであると思わされるのは大きな問題だと思うんです。

西村 少し違う角度から伺ってみたいのですが、僕は海に関する仕事をしているのでいろんな島に行くのですが、そこで空を見て「すごく美しい」と感じる瞬間があります。こうした自然との出会いから何かを感じ取ることと、人間の魂と魂が出会ったときに起きることは似ているでしょうか。

坂東 よく似ていると思います。どれだけ大きな映像にしても空そのものを感じることはできませんよね。もちろん、名監督の映画であれば空を感じられることがありますが、それはカット割りなどの工夫によって空そのものを表現しようとされているからであって、単なる映像ではないからです。

モルディブの海岸で見上げた夕空 ©岡本隆史

人間もテクノロジーによって人に会ったかのような現象を与えられているけれども、島に行ってみなければ本当の空が見えないように、実は人間に出会ってはいないんです。実際に会えば、部屋に入ってきて座って、挨拶をするだけでもどういう人かわかるじゃないですか。今は、人間の魂というか、心というか、存在というか、そういうものに出会わないような世界になってきたんですね。でもこのパンデミックのなかで、もう限界がきていると気づかれると思うんです。何年かかるかわからないけれども、心を大事にする時代を取り戻す……。引き戻されるんだと思います。

「伝承」は心を大事にする人の間で行われている

西村 人と人が会わないと伝わらないものがあるとすると、時代を超えて何かを伝承するにはどうすればよいのでしょう。映像や文字などの資料ではできないと思われますか。それとも、資料からも掘り起こせると考えられますか。

坂東 同じ資料であっても、心を大事にていねいに生きてきた人には伝わります。しかし、送り手と受け手が99%の真摯な気持ちをもって生きていなければ、ただのデータに過ぎないものになってしまう。たとえば、お料理のレシピの通りにすれば誰でもそのお料理ができますよね。だけど、真心を込めて料理をつくってきた人がそのレシピを読めば、そのお料理がどうつくられたのかがわかりますし、つくってみることで新しい発見があるわけです。

『義経千本桜』化粧 ©岡本隆史

西村 今のお話を聞いていて、俳優をしながら学ぶのはものすごく楽しいのではないかと思いました。歴史もそうですし、昔の人が考えたこと、演劇を見ることが、ご自身が演じられるときにすべて生かすことができるのではないでしょうか。

坂東 僕は、舞台を見るのもすごく好きです。でも、生かすために見てきたわけではなく、好きだから見てきたんです。空や海を見るときに「何かに生かせるだろう」と思って見たりはしないでしょう? すごく感動したことが仕事に表れることはありますが、それは意識の外で起きることです。「勉強したことを生かそう」と思うと、かえって生きてこないと思います。

杉本 坂東さんは、ひとつの演目のために多くの資料をご覧になって、大変な研鑽を積まれていると伺っております。その際には、受け手としての真摯な気持ちによって、先人の教えや作者と心を通わせておられたのではないでしょうか。

坂東 昔の人たちが真心を込めてつくった作品を見るときは、その作品の技術や修練したものを見ているわけです。でも、それを見ることを通して何を交信しているかというと、作家の時空、作家の人生なのでしょうね。その作品を書いたときの作家の心境というのでしょうか。それを受け取るのは、自分の人生であり、魂や心の領域なんです。自分がもっている思考の外側にあることは理解できません。ただ、自分のなかに眠っている思考を、作品を見ることを通して覚ますことはできます。もし、その作品に触れなければ、その感覚は眠ったままで一生を送ることになってしまいます。

楽屋で台本をながめる玉三郎氏 ©岡本隆史

西村 つまり、受け手が正しかったときだけ、正しく伝わるということですね。すると、どういう人が受け手であるかによって、伝わるものがまったく変わってくることになりますね。

坂東 でも、受け手が変わったからといって、自分を変えることはできないんです。受け手に合わせるのであれば、たとえば贈り物の中身を変えずに包み紙だけを合わせるんです。口当たりだけ、入り口だけを入りやすくするけれど中身は変えない。技を変えるとしても、思いや作品の質は変えないんです。

西村 作品を変えるわけではなく、同じ作品の入り口をわかりやすくするということですよね。

坂東 そうです。その上で「もっとわかりやすく」と言われたら、僕は「できない」と答えます。人生の答えはそんなに簡単には出てきません。一生問い続けていても出てこないこともあるのです。近現代は、なんでもコンピュータに求めれば答えが出てきますが、人生の答えが全てコンピュータの中に入っていると思ってしまうのは、大きな問題だと思います。

マニュアルやデータではなく、人間の自然に会うことからやり直す

西村 作り手側の思いが、意図しない方向へと変わってしまうことはしばしばあると思います。たとえば、近代郵便制度の父と言われるイギリスのローランド・ヒルは、地方からロンドンに働きに出る人が増えるなかで、遠くで暮らす家族や友人たち同士が関係を保てるように、距離に関わらず一律料金で手紙を送れる制度を考えました。しかし、通信技術が発達して、インターネットの時代になると「つながる」と同時に分断をも生みはじめています。

坂東 ビジネスになると、最初にあった思いの形が変わっていくこともありますよね。農家の方が大切に育てていた野菜も、大量生産しなければならなくなると「商品」になってしまうわけです。農業と言えば、担い手不足が問題になっていますね。一方で「就職できない」という人たちもたくさんいます。彼らはなぜ、農業に目を向けないのかと思うんです。「食べるために働く」ということを考えれば、担い手のいない農業に就けば生きていくこともできるはずですよね。

西村 生きていくことが目的なのであれば、必ずしも企業に就職する必要はないということですね。

坂東 「就職できるかどうか」ばかりが問題になっていて、生きていく手立てを考えるという視点が抜け落ちているように思います。あるいは、成人式も本来は成人した精神になっていることを祝う儀式であるはずなのに、着物を着てパーティに出ることが大切になっています。ものごとの本質を大切にするよりも、マニュアルに従うことが先行してしまっているんです。

年末年始の過ごし方もそうです。昔は、農村や小さなまちで「年越しをしましょう」「新年を祝いましょう」とはじまったことが、「この通りにしたら、年末年始のお祝いができましたよ」とマニュアル化してしまう。そして、本質からズレたかたちで、マニュアルに沿ったビジネスが回っていくのに、人間が踊らされてしまうわけですね。

もし、成人すること、年を越して新しい年を迎えることを大事にする人なら、「今年はコロナ禍でできないけれど、来年改めてお祝いしましょう」と言えるはずです。マニュアル通りであることに意識が向いているから、「お祝いができない」と大騒ぎしてしまうのではないでしょうか。

西村 今のお話を踏まえると、この時代に生まれ育った人たちはマニュアル化した社会しか知らないという意味で、非常に厳しい状況にあると思います。それでもなお、次の時代を担おうとする人に対して「ここからやり直したらいいのではないか」と思われることがあれば教えてください。

坂東 言葉としては大変簡単になりますが、ちゃんと自然を感じるところからはじめたほうがいいと思います。空や海、四季折々の自然、そして人間という自然。データでやりとりする擬似的な“人間”ではなく、自然な人間に出会うということですね。人と人が対面で会ってつきあえば、気分が悪いことも言い争うこともあるだろうけれど、そういうこともあってはじめて人生が前に進んでいくのです。

照りつける太陽の熱、頰に流れる風を感じながら、ダイビングに向かう ©岡本隆史

西村 なるほど。たとえば本やインターネットで調べて知ったことを抜きにしたとき、自分はどれだけのものに出会ってきたのだろうかと捉え直してみるということですね。

坂東 そうです。自然というものとよく対話をして、心を自然なものにしていく。もちろん、叡智をもってしまっているから、人間はもう完全に自然ではなくなっています。でも、もう一度自然に立ち返ろうとすることはできると思うんです。

舞台に込められているのは「言葉にはならないもの」

杉本 誰かの思いからはじまったものごとが、ビジネス化するなかで方向性を変えてしまうというお話がありましたが、舞台空間においては俳優と観客が直接対面するなかで「伝える」ことが起きていると思います。長年、舞台に立たれるなかで観客の方たちと何をやりとりしていると感じておられたのでしょうか。

坂東 やっぱり幸福な時間でしょうね。究極的には、非現実的な時空間をお互いに楽しめるかということだと思います。それは、開演から終演までの限定された時間です。人間は、ずっと非日常のなかにいるわけにはいきませんから。こうした時間は、絶対に必要であると同時に、空気や水のように誰もに必要なものではありません。あったほうがいいけれど、なくても生きていけるんです。

『鷺娘』 ©岡本隆史

西村 舞台の時間を必要とするかどうかは、「自分の人生をどういうふうに豊かにしたいのか」によるのかもしれません。

坂東 一瞬一瞬、「本当に幸せな時間だった」と心の芯から思えたら豊かなのではないでしょうか。花が咲いたり、紅葉した葉が散るのを見て「幸せだな」と思えたらそれは豊かなのだと思います。でも、たとえマンハッタンに立派なビルを所有していようとも、幸せだと思える瞬間がなければ、きっと豊かではありませんよね。

西村 もしかすると、言葉にならないようなものに出会えることが幸せであり、豊かさなのかなと思います。

坂東 その通りです。言葉では伝えられないものなんです。こうして言葉にして伝えられるものを読んで感動するときも、言葉そのものではなくて語り手の人生を感じるから、心を動かされるのではないでしょうか。

だから、舞台を素晴らしいと言われるとき、「どうやって表現されているのですか?」と聞かれても、言葉にはならないんです。修練したものがある時間のなかの、ある空間に閉じ込められていて。その場に遭遇しなければ理解できないんです。

『天守物語』楽屋 ©岡本隆史

西村 結局、最初のお話に戻るように思います。人と人が対面しないと伝わらないものがあり、それによってようやく伝承できるものがあって。人間がその歴史のなかでつないできたものを、今を生きている人たちがすごく大事なものとして受け取れるかどうかなのだと思いました。

坂東 たぶん、魂というものは宇宙に帰っていって、またどこかの誰かに宿ったり、もしかしたら他の星の誰かに宿ることになったり。この肉体というものは一瞬のものだと思うんですね。僕の肉体が存在する時間どころか、人間が存在している時間すら宇宙のなかでは一瞬だと思うんです。

西村 オンラインでのやりとりで成立すると思われている時代において、宇宙にまで思い馳せられるような感性からどんどん遠ざかっているような気がします。

坂東 本当ですね。ある意味では、真の宗教心というものは、宇宙のように大いなるもの、神なるものと交信できる人たちが、天の声を聞いて伝えていたんじゃないでしょうか。

人間の身体は躍動するようにできている

西村 次の時代に向けて、取り戻さなければいけないのは、言葉になる前の気持ちを大事にすることなのかと思います。

坂東 取り戻さなければ先はないでしょうね。1990年代以降、すべては言葉になりデータで表せるのだと思い込まされる流れになっていきました。だから、文学もアートも低迷してしまったんです。でも、この厳しさのなかからしか、言葉にならないものは取り戻せないと思います。

『伽羅先代萩』政岡 ©岡本隆史

西村 もしも、人間が本来大切にすべきものを取り戻せたときに、やっぱり歌ったり踊ったりするのが自然なのだろうと思います。しかし、今はコロナ禍のなかで、一緒に歌ったり踊ったりすることを取り上げられてしまっている状態でもありますね。

坂東 そうだと思います。たとえば、農作をしていた時代には、生きるために働く日常とは違う、魂を喜ばせるお祭りとして歌ったり踊ったりしましたよね。歌や踊りは、そこからはじまっているんです。だから、やっぱり集まって非日常を感じることですね。

西村 人類は集うことからその歴史をはじめ、集団で暮らしていく方法として農耕をはじめました。集うことへのニーズが高い、あるいは非常に自然に集まろうとする動物なのかなと思います。しかも、何もないところに集まりたいわけではなく、歌ったり踊ったりという楽しみとともに集まりたいわけですよね。映像で見るだけでは、集まったときのようには心が動かない。

坂東 劇場に来る人たちは、歌ったり踊ったりはしなくても、舞台上の歌や踊りに思考が繋がることが出来る人たちなんです。それで心が躍動していくのでしょうね。人間には、生きる躍動感と歌ったり踊ったりする躍動感の間でバランスをとっているのだと思います。座ったままで画面を見ていても心が躍動しません。人間の身体は躍動するようにできているんです。

『牡丹亭』 ©岡本隆史

西村 今日は、坂東さんに3つのことを聞きたいと思っていました。冒頭で伺った科学あるいは社会が芸能から学べることについて。2つ目は伝承するということ、そして演劇のもつ価値についてです。すべてについてすごく納得しました。

坂東 ありがとう、よかったです。決定的な答えができなくてごめんなさいね。生きている間はずっと問い続けるプロセスなんです。

西村 こちらこそ、本当にありがとうございました。

(インタビューは電話にて2021年1月21日に実施しました)

 

受賞当時に開かれた記念講演会を下のYouTube動画でご覧いただけます。

 

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〈インタビュアー略歴〉
西村勇哉(にしむら・ゆうや)
NPO法人ミラツク代表理事。大阪大学大学院にて人間科学(Human Science)の修士を取得。セクター、職種、領域を超えたイノベーションプラットフォームの構築と、年間30社程度の大手企業の事業創出支援、研究開発プロジェクト立ち上げの支援、未来構想の設計、未来潮流の探索などに取り組む。 国立研究開発法人理化学研究所未来戦略室 イノベーションデザイナー、大阪大学社会ソリューションイニシアティブ 特任准教授。  NPO法人ミラツクのウェブサイト

〈ライター略歴〉
杉本恭子(すぎもと・きょうこ)
フリーライター。同志社大学大学院文学研究科新聞学専攻修了。アジール、地域、仏教をテーマに、研究者、企業経営者、僧侶、まちづくりをする人たちへのインタビューに取り組む。『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)著。  writin’room