2001年思想・芸術部門音楽
ジェルジ・リゲティ 写真

ジェルジ・リゲティ
(György Ligeti)

  • オーストリア / 1923年-2006年
  • 作曲家

卓越した独創性と革新への強固な意志をもって問題を提起し続けている作曲家

第二次大戦後の前衛音楽の主流であったセリエリズムの限界を見抜き、その成果を生かしつつ独自の音楽スタイルを確立し、豊かで人間味あふれる響で人々を魅了している現代音楽の巨匠である。

プロフィール

略歴

1923年
トランシルバニア地方(現ルーマニア)に生まれる
1941年
クルージ音楽院で作曲を学ぶ
1949年
ブタペスト音楽アカデミー卒業
1950年
母校で講師を務める
1956年
ハンガリー動乱を機にウィーンに亡命
1957年
ケルンの電子音楽スタジオで働く
1961年
ストックホルム音楽アカデミー客員教授
1967年
オーストリアの市民権を得る
1972年
スタンフォード大学に滞在し,作曲
1973年
ハンブルグ音楽大学教授
世界各地で教鞭をとる

主な受賞と栄誉

1964年
スウェーデン音楽アカデミー会員
1968年
ベルリン芸術アカデミー会員
1972年
ベルリン芸術賞
1975年
バッハ賞(ハンブルグ市)
1984年
アメリカ芸術・文学アカデミー名誉会員
1984年
モーリス・ラヴェル賞
1985年
オネゲル賞(パリ)
1987年
オーストリア科学芸術栄誉賞
1988年
フランス芸術文化勲章
1991年
世界文化賞(日本)

主な作品

1958年-1959年

《アパリシオン》

1961年

《アトモスフェール》

1963年-1965年

《レクイエム》

1966年

《アヴァンチュール》

1967年

《ルクス・エテルナ》

1967年

《ロンターノ》

1974年-1977年

オペラ《ル・グラン・マカーブル》

1978年

《ハンガリアン・ロック》

1983年

《マジャール・エチュード》

贈賞理由

卓越した独創性と革新への強固な意志をもって問題を提起し続けている作曲家

ジェルジ・リゲティ氏は第二次大戦後の前衛音楽の主流であったセリエリズムの限界を見抜き、その成果を生かしつつ独自の音楽スタイルを確立した現代音楽の巨匠である。

リゲティ氏は、1956年、ハンガリー動乱のためオーストリアへ亡命した後、世界の舞台に登場した。そこで、それまでの政治的に閉ざされていた世界 とは異なる西ヨーロッパの動きと、同時代の前衛音楽に触れ、氏独自の語法と作風を創造し始めた。1959年の《アパリシオン》に取り入れられた氏独特の 「トーン・クラスター(密集音の語法)」は、ヨーロッパ音楽界に衝撃と新鮮な息吹を与えた。これに続いてドナウエッシンゲン国際現代音楽協会(ISCM) 音楽祭で初演された《アトモスフェール》は、現代音楽史に残る作品となった。その中で、氏は「クラスター(密集した音の塊)」の内部の音のすべてに精密で 複雑な運動を与えている。氏自身、この技法を「ミクロポリフォニー」と名付けているが、これによって、その巨大な音の塊は輪郭を持った形としてよりも、そ の中で克明に書き込まれた一つ一つの音の動きによる色彩の移ろいとして聴き取られるのである。

1960年代、氏は3人の歌手と7人の器楽奏者のための劇的な作品《アヴァンチュール》(1962年)、氏の作品の中でも独特な叙情性をたたえた作品《ロンターノ》(1967年)などによって、現代音楽を代表する作曲家としての不動の名声を博することとなった。

一方、1974年から77年にかけて、氏独自の新しく個性的な技法を駆使して作曲されたオペラ《ル・グラン・マカーブル》は、オペラの新しい方向性 を示す20世紀後半最大のオペラとして高く評価されている。1980年代に入る頃から、氏の作風はますます多様かつ豊かなものとなった。故国ハンガリーの 色彩の濃い作品を生み出すかたわら、アフリカ音楽など非ヨーロッパ世界への関心を高め、フラクタル(全体と部分が相互に挿入される自己相似性に関する数 学)の考え方を創作に取り入れるなどして、氏の創造は、ポリリズム(多次元リズム)や、オートマティズム(自律運動性)の独特な開拓とあわせ、豊饒な果実 をもたらしている。

セリーの技法であれ、「偶然性」の技法であれ、現代音楽のあらゆる技法・様式の限界や束縛を超えた地平に創造の可能性を求めるリゲティ氏は、自らが 置かれた政治的に厳しい状況の中でも鋭い批判精神と豊かな独創性を絶やすことなく、終始一貫した強い意思により活発な活動を今も続け、人間味あふれる豊か な響によって世界の人々を魅了している。

よって、リゲティ氏に思想・芸術部門における2001年京都賞を贈呈する。

記念講演

記念講演要旨

科学と音楽と政治のはざまで

私は14歳の時にピアノを習い始め、そのすぐ後に作曲もするようになりました。同じ頃、複雑な化合物の構造表示に魅了され、有機化学にも強い興味を 抱くようになりました。15歳から18歳までは数学に熱中し、その結果、クルージュ(ハンガリー名:コーロズヴァル)大学の数学と物理の入学試験に合格し ました。しかしながら、1941年当時、ハンガリーにはユダヤ人に対する入学許可人数制限があったため、大学への入学は拒否されてしまいました。その代わ り、幸運にも同市の音楽学校に入学が認められ、音楽理論と作曲を学ぶことになりました。

学業は戦争の勃発で中断されました。私はハンガリー軍に徴用され、強制労働に従事させられました。家族は強制収容所に送られ、そこで生き延びたのは母だけでした。

戦後、私は科学者の道に戻る代わりに、ブダペストの音楽アカデミーで作曲の勉強をしました。そして1950年、同アカデミーの和声と対位法の教師に 任命されました。東欧諸国は、ナチの迫害を逃れた後、今度は別のテロ体制、すなわちソ連の共産主義に苦しめられていました。私はこのような生活に耐えられ ず、1956年にハンガリー動乱がソ連軍によって鎮圧された後、オーストリアに逃れました。ウィーンからケルンに移り、そこで電子音楽の創造に用いられる 技法を学び取ることができました。しかしながら、やがてそういった技法の限界に幻滅を感じ、いくつもの音の層を重ね合わせた多層式の管弦楽や声楽に、同じ 技法を応用しようと思い立ちました。

その結果、1950年代の後半には、「ミクロポリフォニー」の手法を駆使して、管弦楽曲の大作《アパリシオン》や《アトモスフェール》を、さらに 1965年には《レクイエム》を作曲しました。同じ頃、歌手と室内アンサンブルのための「音声」作品―《アヴァンチュール》と《ヌーヴェル・アヴァン チュール》―も世に出しました。また、かねてから多層式のリズム構成に関心を寄せてきた私は、その構成を100個のメトロノームによる《ポエム・サンフォ ニック》(1962年)、2台のハープシコードによる《コンティヌウム》(1968年)、そして《2台のピアノのための3つの曲》(1976年)に応用し ましたが、後になって《ピアノのための練習曲集》と《ピアノ協奏曲》(1985年~2001年)では、さらに新しいリズム構成を生み出しました。5個の自 然の角笛による合奏を含む《ハンブルク協奏曲》(1999年)などでは、非平均律の和声も用いてみました。

私はまた、1950年代のブダペストにとどまらず、1961年から1972年のストックホルム、1972年のスタンフォード大学、そして1973年から1989年のハンブルクに至るまで、生涯の大部分を後進の教育に捧げてまいりました。

【関連情報】
記念講演録(PDF)
ワークショップ

ワークショップ

リゲティ イン 京都

Ligeti in Kyoto

日時
2001年11月12日(月)13:00~17:30
場所
国立京都国際会館
企画
長木 誠司 [(専門委員会 委員)東京大学大学院 総合文化研究科 助教授]
司会
佐野 光司 [(専門委員会 委員)桐朋学園大学 音楽学部 教授]

プログラム

13:20
開会 佐野 光司
挨拶 稲盛 豊実 [稲盛財団 常務理事]
受賞者紹介 長木 誠司
受賞者講演 ジェルジ・リゲティ
「ピアノのためのエチュードにおけるリズム構成」
休憩
シンポジウム 「リゲティ ヨーロッパ的知の超克」
司会:長木 誠司
パネラー:湯浅 譲二 [(審査委員会 委員)作曲家]、徳丸 吉彦 [(審査委員会 委員)お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 研究科長]、細川 俊夫 [作曲家]、沼野 雄司 [東京音楽大学 専任講師]
演奏
(*日本初演)
《ピアノのためのエチュード集》より
第2巻/第13番 第14番 第14A番*
第3巻/第15番 第16番* 第17番* 第18番*
ピアノ:大井 浩明
《夏》*
《ミステリー・オブ・ザ・マカーブル》
ソプラノ:森川 栄子
ピアノ:大井 浩明
《弦楽四重奏曲第2番》
演奏:クァルテット アルモニコ
《記念碑・自画像・運動》
ピアノ:児玉 桃、大井 浩明
17:30
閉会 佐野 光司
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